ずずぶろぐ

ていねいでない暮らし

映画『たかが世界の終わり』(2016年) 当事者にしかわからない怒り

こんにちは、ずず(zuzu)です。

昨日のブログは、エリザベス女王国葬のテレビ中継をチラ見しながら書きました。

zuzuzblog.hatenablog.com

ウィリアム皇太子はハリー王子に友好的に接していましたね。

私がもしウィリアム皇太子だったら、絶対にできないことです。

さすが将来の国王だと感心しました。

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日本公開は2017年で、映画館に足を運んだグザヴィエ・ドラン監督の『たかが世界の終わり』という作品があります。

gaga.ne.jp

フランスとカナダの合作ですが、フランス語の作品だったため、フランス映画だと思い込んで観ていました。

そのときは、ひと昔前までのフランス映画特有の暗さと、怒鳴り声や暴力シーンが多く、会話は少なく、退屈でなんだかわからない、だけど心に引っかかるものがありました。

そして鑑賞して1年以上経ったとき、何かの拍子に”この家の長男って、もしかして私?”というある種のブレイクスルーが起こりました。

陰気な映画の陰気な長男が自分自身だったのです。

 

片田舎の実家から独立して12年もの間連絡を絶っていた次男が、病気で死期が近づいていることを家族に知らせるため帰省します。

母親と妹は音信不通だった次男(兄)が帰ってくることを喜びはしゃぎますが、長男は面白くない。

次男(弟)に病気のことを伝える機会を与えないほど、長男(兄)は次男(弟)に怒りをぶちまけるのでした。

一般的には、死期が迫った次男(弟)を激しく攻撃する長男(兄)に対し、そこまでやるかと嫌悪すると思います。

 

ですが、長男(兄)の立場から次男(弟)はどう映るでしょうか。

次男(弟)は都会で好きなことをして成功し、自由で華やかな暮らしをしている。

(死期が迫っているとはいえ)自分の都合がいいときだけ帰ってくる。

自分は退屈な田舎で家庭を築き、いずれは親の面倒を看て、一生田舎から出ることはない。

母と妹は、次男(弟)との久しぶりの再会に浮き足立っている。

長男(兄)の次男(弟)への屈折した怒りは、年月を経て丸くなるどころか、巨大化したマグマに成長していることが手に取るようにわかるのです。

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介護はやったもん損といわれますし、そのとおりだと実感しています。

たまに帰ってくるきょうだいの前では、母はシャンとした姿を見せようとします。

そんな母を見てきょうだいはホッとするのでしょうが、現実は違います。

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ウィリアム皇太子とヘンリー王子の関係について、ネットニュースのコメントをザッピングすると、たとえ兄弟であっても独立すればそれぞれの人生があるので、必ずしもわかり合う必要はないという大人の意見が多く、我が事のようにうれしかったです。

きょうだいは”Separate Ways”が当然。

大人になればきょうだいとの付き合いは、会社の同僚くらいの距離感でいいのではないでしょうか。

気が合えば頻繁に交流するもよし。

もし同僚が意地悪だったりすれば、配置転換を希望するか、転職して絶縁してもいいと思います。

親族とはいえ、人間関係でムダに苦しむ必要はないですからね。

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たかが世界の終わり』は戯曲を映画化したものだそうです。

この作品は万人向けではなく、映画通でも不可解かもしれませんし、当事者でもツボにハマらない限りつまらない作品だと思います。

ですが、地味だけど、世界中の誰かに必要とされている作品だと思います。

またね。