ずずぶろぐ

ていねいでない暮らし

【推し】推しがアンビバレントだったと思うと腹落ちする

こんにちは、ずず(zuzu)です。

今日でいったん『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』についての感想は終わりにしたいと思います。

同時に両極端の感情を持っていた?

映画『エルヴィス』を初めて鑑賞したとき、当初の疑問”、エルヴィスってどんな人物だったのか?”ということが解消できなかったため、あれこれ調べ始めました。

すると、エルヴィスのことを知れば知るほど、それまで蓄積したエルヴィスのイメージがぐらつき混乱していくのです。

敬虔なクリスチャンなのに…

内気で慎重な性格というのに…

お酒もタバコもやらないのに…

本書では、最終章の最後のトピック”永遠のアメリカン・ヒーローにおいて、エルヴィスの人物像を以下のように表現しています。

(前略)エルヴィスを、南部労働者階級の平凡な環境から非凡な存在へと突き抜けさせたのは、彼の偉大なカリスマ性だった。それを支えたのは、彼の限りなく振幅のある感受性だった。彼には、相反する両極端の概念を、自分の身体の中に同時に受容する才能があった。そもそもデビューした時から、エルヴィスは二重の表情を持っていて、一方で彼は当時の若者たちの不満を代弁する孤独で憂鬱な反逆児であり、同時に彼は、生真面目で礼儀正しく信仰深い田舎青年だった。しかも彼の中で、そのことに何の矛盾もなく、それがエルヴィスの自然体だった。彼は常に型破りであると同時に正統的だった。剥き出しの荒々しいパワーをぶつけるかと思えば、見事なまでに洗練されていた。直感的でありながら、同時に冷静だった。投げやりのようでありながら、徹底した完璧主義者だった。はにかみ屋でありながら、同時に大胆だった。現実的でありながら、ロマンティックな夢想家だった。そしてそのどちらもが、本物のエルヴィスだった。エルヴィスとは、矛盾した人生のさまざまな要素が、類い稀なる音楽的才能に出会って生まれた一個の結晶だった。そしてその極端のすべてがアメリカ的だった。エルヴィスは、アメリカン・ドリームに自己燃焼することを許された最後のアメリカン・ヒーローであった。かつて、アメリカの始祖たちが、またアメリカの開拓民が夢見た理想の前には、常に厳しい現実があった。しかし、彼らは現実の向こう側に、かならず理想の世界がひろがっていることを信じた。この二重の視座が、アメリカ人の精神的原動力となっている。エルヴィスは、この二重の複合的要素を統合し、アメリカン・オリジナルとして、アメリカ文化の永遠のアイコンとなった。エルヴィス・プレスリーは、まさにアメリカのデモクラシーと大衆文化が生み出した不世出のアメリカ型芸術家だった。

 株式会社角川学芸出版発行 前田絢子著『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』(2007年)より引用

長い引用、失礼いたしました。

エルヴィス・プレスリーは、音源、映画、ステージなど様々な楽しみ方がありますが、それぞれの時代でエルヴィスがどのような状況に置かれ、その時々のエルヴィスの心情を想像することで、作品をより深く味わうことができます。

エルヴィスはそのイメージと反する意外性を持ち合わせていました。

本書では、エルヴィスを”相反する両極端の概念を、自分の身体の中に同時に受容し”、”二重の表情を持ち”、”矛盾した人生のさまざまな要素が、類い稀なる音楽的才能に出会って生まれた一個の結晶”と締めくくっていて、やはりこういうことだったのかと膝を打ちました。

一口には説明できないエルヴィスという人物ですが、エルヴィスには表と裏の顔、二面性があったのではなく、一つの対象に両価的な感情を持ちやすく、同時に両極端な生き方をしがちな複雑な性格だったというのが、ふさわしいのではないかと考えます。

その生き方は他人から見ればつかみどころがなく不可解ではありますが、エルヴィス本人はその矛盾に関しては無意識であったとしても、有名人となった負の面を、散財することやゴルペルを歌うこと、処方薬を服用することなどで、バランスをとっていたのかも知れません。

 

またね。